どうも、新川です。

今回は、
日本の古方派の祖である名古屋玄医の流れを発展させた
後藤艮山についての記事です。

※名古屋玄医に関しては、
【東洋医学史】古方派について 第一
をご参照下さい。

後藤 艮山(ゴトウ コンザン 1660~1733)
江戸に生まれる。
27歳のとき、志を立て、
当時の古医方の大家・名古屋玄医について医学を学ぼうとしたが、
門前払いとなり、一念発起し独学で医学を修める。
貧富を問わず治療したため医業は盛行し、
門人200人を数えたという。
多くの和漢の医書を学んだ中で、
傷寒論を重んじ、
その結果「病はすべて気の滞りにある」とした
一気留滞論』を著した。

艮山の治療法の特色として、
食事療法、温泉療法、瀑布泉(滝にうたれる療法)、
熊胆、蕃椒(唐辛子)などの
民間療法の積極的な運用があげられる。

それまで、髪を剃り、僧衣をまとい、僧官を拝受するというのが
通常の医師の様式であったが、
形式的なものにとらわれない艮山は、
髪を蓄えて束ね、服装も平服を着用した。
それにならった医師たちが多く、
この時期から僧体の医師が減少したと伝えられる。

「およそ病の生ずる風、寒、湿によれば、
その気滞り、飲食によるも滞るなり。
七情によるも滞るなり。
皆、元気の鬱滞するより成るなり。
ゆえにその支ゆるものは大概かくのごとく違えども、
その相手になり滞るところは一元気なり」(『師説筆記』より)

「業にすれば、
どうでも医者根性と云うものになる。
医は病を治する名にして、業の名にあらず。
医家者流の其者(医業の達人)になるも、
医に心を用いず、第一業が主になるゆえ、
いろいろな私欲が出て来て名聞利害に走るなり。
病人のためになることは工夫せず、
私に覆われるゆえ、効きもせぬ薬をむりに売りつけて、
反りて害をなすなり。
不仁の甚だしきなり。」(『師説筆記』より)
病を治すという医師の使命をないがしろにし、
ただ利益のみを優先するようになると、
過剰な薬を売りつけることになりかねないということを示している。

以上のエピソードから、形式にはこだわらない姿勢とともに、
医術、医療に対する艮山の信念が読み取れる。

また、
艮山の元からは、
多くの才能が輩出した。
中でも香川修庵山脇東洋の両名が
その後、名を馳せることとなる。


<参考文献>
『日本医療史』 吉川弘文館
『鍼灸医学事典』 医道の日本社
『中医基本用語辞典』 東洋学術出版社
『図説 東洋医学〈基礎篇〉』 学習研究社

※画像や文献に関して、ご興味がおありの方は
是非参考文献を読んでみて下さい。

新川

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