<近日開催予定のイベント>
8月20日(日):第五回、鍼灸学生の為の勉強会〜【医古文・漢文の読み方No.2】〜


どうも、新川です。

以前、一鍼堂の近くに住んでいた時、
休日に出掛けるとなったら、
梅田・難波・心斎橋ではなく、
「千里中央」へ足を運んでおりました!
田舎生まれの私は、
デパートがあり、少し大きめの本屋さんがあれば、
そこは立派な都会と認識してしまいます。

先日、台風前に行った時の一枚です。

台風接近前の千里中央の広場
台風接近前の千里中央の広場

空には暗雲が立ちこめており、
肌にまとわりつく空気は重く感じます。
大雨、強風警報なども出ていたため、
お昼間にも関わらず人気はほぼありませんでした。

土日には、よく催事で賑わっている場所なので、
これだけ閑散としていると違和感を感じてしまいます。

———————————————————————————
前回までの記事はこちら
腹診と僧医 其ノ一
腹診と僧医 其ノ二
腹診と僧医 其ノ三
腹診と僧医 其ノ四
腹診と僧医 其ノ五
腹診と僧医 其ノ六


室町から江戸期にかけて活躍した僧医といえば、
この人物を抜きにして語れません。

御園 夢分齋(1559年〜1616年)

生まれは岩代(現在の福島県)の二本松(異説には江州とも)。
元々、京都紫野大徳寺閑松院の禅僧であった。
実母が腹痛を患っており、
これを治すために鍼術の多くを学ぶ。

腹部打鍼術の祖として有名だが、
その奥義は弟子の意齋に引き継がれ、
後に『鍼道秘訣集』として世に出ることとなる。
『鍼道秘訣集』の著者に関しては、
不祥とされているが、
夢分齋の伝書ということと、
実際にまとめ上げたのが弟子の意齋であるという見方がある。

前回の記事(腹診と僧医 其ノ六)にて
永田徳本の紹介を行ったが、
彼の著作として『徳本多賀流鍼穴秘伝』があり、
夢分齋は、多賀法印から鍼術を授かったとされているため、
同時代に生きた二人には浅はかならぬ関係があったことが考えられる。

では、多賀法印とはどんな人物だったのか?
大塚敬節氏の『腹診考』によると、
多賀薬師別当法印見宜自行院とよばれた」とあり、
大塚氏が所有している多賀薬師の「腹診之法」といわれる書には、
田賀の薬師別当法印見宜白行院といへるは、腹診の妙なる人と伝侍る。其伝世上に残れり
と、腹診において一家言をもつ人物だったと推測される。


参考文献:
『日本医療史』 吉川弘文館
『鍼灸医学事典』 医道の日本社
『中医基本用語辞典』 東洋学術出版社

参考URL:
『腹診考』 大塚敬節 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed1950/11/1/11_1_13/_pdf

※画像や文献に関して、ご興味がおありの方は
是非参考文献を読んでみて下さい。

返事を書く

Please enter your comment!
Please enter your name here