息子を鍼師にするために、
言葉を覚え始める程の
時から経典とも言える古い書物を
読み聞かせて、
触診を含めた診断術を教えた。
鍼も持たせた。
でも、少年になる頃には、
一切を教えるのをやめました。
本当に教えたい事を教えるには、
今は概念など入れず、
五感のままあらゆる気配や人に触れることが
何よりも肝腎であること、
外で走り回る事で
身体の使い方を覚えること。
人との触れ合いで人の温もりや、
どういう言葉で人に気持ちを伝える事が
出来たか、或いは、
どんな人の行為や言葉で自分が傷ついたか、
或いは、それにどう向き合ったか
それらが何よりも大事なことで、
それらを抜きにして教えられる学問も技術も
存在しないので、
とにかく教えることをやめた。
教えるには教わるべき下地が存在する。
本当に教えるには、
教えてはならないというのが
今の答えで、
子供ではない成人である周囲の弟子にも
結局本質を教えたいから、
教えないという判断を下し寄り添うばかりと
なっている。
それで実が出てくれなければ、
教えると言う事で、一定のレベルまで
強引に引っ張る事は可能だけど、
結局一定のところから先は教わった事が
逆に邪魔をする事も多く、
とても悩ましい問題です。
出来れば手取り足取り教えず、教えたいというのが
本心です。
「林は何も教えてくれない」
と、うちを去った者達の恨みの大合唱が
聞こえて来そうですが、
きちんと教えたいから簡単には教えられない
というのが願いなんです。
なかなか伝わらないんだけど。。
どちらにせよ、
そういう気持ちが伝わるにも
10年以上、苦楽を共にしてやっと
というところにもなります。
お陰様でずっと近くにいる弟子は
15年以上いてようやく
学ぶってなんだろう。
自分にとっての学びはこれかなと
いう試行錯誤の歯車が動き始めたように思えます。
数少ない僕の成果です(笑)
いや、しかし。
人を一人育てるのに一体何十年かかるんだよ。
夫婦で寄り添い歴史を刻むのも一生物。
師弟の関係も同じだと思います。
面白いですね。

セルフポートレート / 大好きな椿の花と。
写真の無断コピー・使用はやめて下さいね

返事を書く

Please enter your comment!
Please enter your name here