私は、前にも書いたが、ハムスターを飼っている。
もともと動物を飼っても、その動物の本来の生き方をさせてやることは
出来ないので、動物にとっては不幸せなことなのかもしれないと思い、
飼わないことにしていたのだが。
ふとしたことで飼うことになったのである。
小さな生命と触れ合って気付くこと。
それは、彼らも生きているというまぎれもない事実。
人と同じように甘え、人と同じようにスネたりする。
今では、いってらっしゃいとお帰りをしてくれるようになった。
(腹をすかして、甘えると私がすぐに甘やかしておやつをあげてしまうだけかもれない笑)
一昨日、仕事から帰宅すると丁度、脊髄損傷をどこまで治すことが出来るかという
特集?再放送番組?がやっていた。
そこで、脊髄損傷を起こしたラットに対して、あることを行ったケースと
しなかったケースとの比較をしていた。
おそらく彼らはこういうラットを何百匹も作り出してきて、そして殺してきたのだろう。
人類の病の克服という題目の下で。
脊髄を損傷されたラットは、恨めしそうな顔で下半身を引きずっている。
実験の有効性を誇らしげに報告する研究者。
これを見たとき、なんとも怒りがこみ上げてきた。
人類は神にでもなったつもりだろうか。
今の医学は理論で医療を進めていく、この理論でいけば治るはずである、と。
そこで出来上がった法則をさて現場で使うかというと、そうではない。
動物で実験して検証する。研究データを取る。
そこでまた、理論を再構築していくのだろう。
これ。よく考えると、まさしく経験医学と言えるのではないだろうか。
西洋医学は理論的で、
東洋医学は感覚的な経験医学であると言われるが、
果たしてどうだろう。。
全く違うぞ。
ラットで経験を積んでいるだけで、それを生命としても扱わず、経験としても
意識していないだけではないか。
小動物の死は経験とも言えないのか。ただのモノか?
結局のところは経験医学ではないか。
理論を何よりも掲げるのであれば、理論であがった段階でそれを医療の現場に使えばよい。
何故に、動物実験をする。
ラットも生きている。人と同じだ。
人類は何様のつもりだ。
結局、理論ではわからないのではないか。
それを認めろ。我々人類の智慧など、自然の営みに比べれば塵にも満たない。
東洋医学は、目の前に病人が現れた場合。
なにをするか。
観察するのである。
徹底的に観察するのである。
顔の形、脈の状態、爪の色、皮膚の色、腹壁の状態、白目の色、目の動き、足運び、経穴の状態、舌の形状、
舌の色、舌の苔の厚さ、その色、乾き具合、声の質、臭い、体形、病歴、などなど。
挙げればきりがない程、徹底的に観察している。
毎日、どのような病気の患者にも同じように観察する。
だから、その病気の患者特有の異常がすぐにわかる。
違和感として我々にすぐに情報が届く。
日々の鍛錬。
とても優しい治療とは言えまいか。
そんな東洋医学を心から私は誇りに思う。
それをデータとしてあがらないから信憑性にかけると
今の医学制度から虐げられている。
どちらが理論的、合理的であるか。
逆に問いたい。たかだか人の搾り出した理論をあげ、
小さなか弱い動物でその理論の信憑性を
確認する。
それで効果の或るものは使う。
それが理論的、化学的と言えるのか。
笑止。
殺され行く動物はなにか。
現代医学の病の研究には、人類の健康のためには そこに多くの
動物達の屍骸が存在する。
忘れてはならぬ。
昨日横で見ていた相方が言った。
「いつか人が同じことをされるかもね。」
「そうかもしれぬ。」
私も答えた。
いつも拍子抜けしたことをいう相方だが、
たまには良いことを言う。
人とはなんとも業が深い。
めねぎ 僕だって生きています。

  めねぎ「僕だって生きてます。」
めねぎ ぐ~たらだってします。

  めねぎ「ぐ~たらだってします。」
めねぎ 愛。

     愛。
以上、上二点 NikonD200+Ai AF Nikkor 50mm F1.4D
   下一点 NikonD200 +カールツァイス プラナー T* 50mm F1.4 ZF

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