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どうも新川です。

現代でいうカルテなどの診療記録のことを
中医学の世界では
「医案」「診籍」などといいます。

最も古い「診籍」は、
淳于意が著したものといわれていますが、
その内容は司馬遷がまとめた
『史記』の「扁鵲倉公列伝」中にあります。

淳于意についてのエピソードを
以下にまとめてみました。

◉名医として認められていた淳于意は、
人の病を治療していくなかで、
人の生き死ににも多く関わり、
また、各地の諸侯から請われることもあり、
そちらへ足を運んでいた分、家を空けることが多くあり、
その中で病人から怨みをかうこともあったようです。
「扁鵲倉公列伝」には、
爲人治病.決死生多驗.然左右行游諸侯.不以家爲家.或不爲人治病.病家多怨之者.
(『史記』扁鵲倉公列伝 より引用)
とあり
これだけを読むと、
怨まれるだけの根拠が今ひとつみえないところです。
あくまで想像の域を脱しないところですが、
なにか逆恨みされることがあったとか、
名医としての活動への嫉みなどがあったのかもしれません。
(こちらに関しては、
名医 淳于意は本当に恨まれていたのか?
もご参照頂けると宜しいかと思います。)

その後訴えをおこされ裁判にかけられた結果、
有罪となり、
それを憂いた
淳于意の五人の娘の一人、末娘の緹縈ていえい
時の皇帝、文帝に手紙を書き、
その手紙に心うたれた文帝は淳于意を無罪とし、
また肉刑(入れ墨を施す、足を切る、去勢する・・など)制度を廃止することにいたりました。
無罪放免となった淳于意は、
その後文帝からの呼び出しをうけ、
淳于意が今まで行ってきた医療に関しての知識や、
誰にその医療知識を学んだのかなどを問われて話した内容の中で、
実際の治療業績の部分が現在最古のカルテといわれているところです。

よって、
この裁判の結果がひっくり返らなければ、
最古のカルテの内容は歴史の中に埋もれていったわけです。

また、
司馬遷が『史記』をまとめる際に、
淳于意のエピソードを採用したことも重要となります。
元々、『史記』は、
司馬遷の父、司馬談がまとめようとした歴史書ですが、
司馬談が亡くなってしまい、
その遺志を引き継ぐ形で司馬遷がまとめあげたものです。
それも一筋縄ではいかず、
友人の李陵をかばったことで武帝の怒りを買い、
宮刑(生殖器を切り取られる罰)のうえ、
三年間投獄されておりましたが、
それでも結果『史記』を書き上げました。

これだけ苦労した司馬遷が、
歴史の中の真実に光を見いだす為に、
数々の歴史上の出来事を長い年月をかけて綴っていくなかで、
淳于意にスポットライトを当てたことも
偶然ではないように思います。

このように考えると、
様々な要因がうまく重なった結果、
現代にも残り続けたことは
とても奇跡的なことといえます。


参考文献:
『東洋医学概論』医道の日本社
『中国医学の歴史』
『中国鍼灸各家学説』
『中医学の基礎』 東洋学術出版社
『中国医学辞典 基礎篇』
『中国医学辞典 鍼灸篇』たにぐち書店

参考論文:
角屋 明彦 (2015)「淳于意(じゅんうい)の〈治療世界〉 : 漢文帝(かんのぶんてい)下問説話」
尚美学園大学学術情報リポジトリ
https://shobi-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=165&item_no=1&page_id=13&block_id=21

※画像や文献に関して、ご興味がおありの方は
是非参考文献を読んでみて下さい。


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