どうも、新川です。

前回、
【東洋医学史】古方派について 第二にて
後藤艮山について紹介しました。

今回は艮山の高弟である
香川修庵山脇東洋の両名について綴って参ります。

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香川修庵(カガワ シュウアン 1678~1755)
修徳ともいう。
姫路の生まれ。
18歳で後藤艮山に学び、医学を修める。
また儒学を伊藤仁斎に学ぶ。
もともと学問を好み、父の遺志によって医を選んだ。
儒学への情熱はさめず、
「儒と医は一にして二ならず」として、
一本堂と称した。
彼の研究所には門弟も多く集まった。
『薬選』、『行余医言』などの著書がある。

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山脇東洋(ヤマワキ トウヨウ 1705~1762)
名は尚徳、字は玄飛、子樹、東洋と号す。
京都亀山の生まれで、
本姓は清水で、父東軒が法眼であった山脇玄修に師事しており、
玄修は尚徳の才能を見抜き、養子として迎え、法眼の職を継がせた。

香月則真、稲生宣義、香川修庵と共に学び、
後藤艮山の門に入り、『傷寒論』の研究を行った。

『皇国名医伝』によると、
当時の官医は娼妓の治療を禁じられていたが、これを撤廃し、
また、殿上人の治療において
複数の医師が衆議するのが習わしであったが、これも撤廃した。

古医方の先頭に立ち、
香川修庵とともに古方四大家とよばれた。
1712年(宝暦2年)刑屍の解剖を行い、
わが国初の解剖書である『臓志』の一書をまとめた。
また後藤艮山に学んで施灸をすすめた。


<参考文献>
『日本医療史』 吉川弘文館
『鍼灸医学事典』 医道の日本社
『中医基本用語辞典』 東洋学術出版社
『図説 東洋医学〈基礎篇〉』 学習研究社
『建殊録』農山漁村文化協会
『東洞全集』思文閣
『吉益東洞「古書医言」の研究』汲古書院
『吉益東洞の研究 日本漢方創造の思想』岩波書店

※画像や文献に関して、ご興味がおありの方は
是非参考文献を読んでみて下さい。

新川

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