人には何かを決断する時がある。
不思議なことに、
その想いが強く明確なほど、
あるいは、その先が自分のもった
使命とリンクすればするほど、
驚くほどにダイレクトに、
大きな大きな試練が現れる。
困難と言ってもいいかもしれない。
人には言わせれば不幸と名付けるかもしれない。
毎度、毎度、
なんでこんなことが起こるのかと問うた。
或いは、なんでこんな苦しみを背負わなけばいけないのかと何度も天に問いかけた。
しかし、いつだってそこには無言自体の返事があり、
苦難を乗り越えることを沈黙とともに示される。
舗装された道を示されたことなど、
一度もなかった。
これが解である。
奇妙であるが、これが解である。

僕は、いつも何かの方向を決めた時、
誓願をたてる。
自分の命に向けてでもいい。
なにか大きな存在に対してでもいい。
しかし、
その瞬間から
受難は始まる。
そして、今回も始まった。

それに比べて
己に満足し、
何かを犠牲にしてことを成し遂げる
必要のないとき、
いわば、慣らし運転を行っているときにおいては、
逆に難は示されない。
平穏無事な道が続く。
これを人は幸せと呼ぶのであろうか。
幸せとという表現がもはや相対的な表現なので
そもそもが意味もなさないが、
そのような凹凸のない螺旋は
人一人の生きる目的ではないなと
感じている。

生病老死。
上の人生における二つのステージを考えても、
何かに向かう際の摩擦が
現れることを考えると、
人はただ平穏無事を享受するための
存在ではないのだなと思わせられる。

もはや
そういう時代ではないように
世間は成されつつあるように思われますが、
人にはどこをはじめとし、
どこを目的地とすべきかを
しっかりと刻みながら歩むべきでは
ないだろうか。
もちろん、
上に書いたように
一定の果実と
それ以上の困難を享受しながら。
表面的な快楽と社交性で、
本来の苦しみに容易に蓋をしめることの
出来るシステムを抱いた文明に
浸っているからこそ尚更だ。
社会も、政治も
教育も、みんな苦しくないよ、
安全だよ。
と説きます。
本当でしょうか。
そんなものは方便です。

人はやはり、
決めなければならない。
無難な道を選ぶことなどできない。
仮にその道が無難であった場合、
その道は、おそらく誤った道だ。
酷な言い方をすると、
人は前を向いた瞬間に
苦しむようになっている。
苦しみ、超えるように出来ている。

僕は、とりあえず、
これから
目の前に現れた難に
背けず、手足を泥に絡ませながら
一歩ずつ戦い続けようと思っています。
それが、もう一つの解であり、
自分の過去と未来に対する問答に
他ならないと思います。

こんな時代にあっても
心を辿れば、
どこにいようが
いつだって激動のそれがある。
その激動に心踊らせる
時代を何度かこなしてきたので、
そのように高揚して身を焦がす立ち位置では
なくなったが、
激動の熱と静かな沈黙を
うまく織り交ぜ、
この美しき日本の春夏秋冬とともに、
踊りきろうと心に決めております。

もちろん鍼とともに。

     2014/06/08

   林

最近撮った写真。

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