こんにちは、新川です。

暑いです。

なにか暑気払い出来ないかなと
調べていますと、
「ビアガーデン」が引っ掛かりました。

ビアガーデンの思い出と言えば、
数年前に某梅田のビアガーデンへ行ったのですが、
鶏の唐揚げが石のように
カッチカチ
でした(泣)

どこでもそんなものなんですかね?
それが最初で最後のビアガーデンだったので、
今はもっと美味しいお料理が並んでいるのかもしれません。
そう信じたいものです。

ちなみに、ビールの本場ドイツでは、
こんなおしゃれなところがあるそうです。

ドイツビアガーデン
ドイツビアガーデン

All Aboutより転載

さて、今回は、

黄帝内経素問 湯液醪醴論篇
についての記事です。


今回は、湯液醪醴論篇について綴って参ります。
本来ならここにまとめてある以上の内容がありますが、
なるべく分かりやすくするため、
一部を抜粋して表現させて頂いております


【湯液醪醴論篇 第十四】

この篇の題名にもあるように
湯液、醪醴の製法
から説明が行われている。

●湯液(トウエキ):漢方に用いられる煎じ薬の総称。

●醪醴(ロウレイ):「醪」とは、もろみのこと。
「醴」とは、中国では、甘酒をさす。
いわゆるどぶろくのようなもの。

黄帝がいう。
「上古の時代に学問をおさめた医師は、
湯液と醪醴を作製した。
しかし作って備えおいただけで用いることをしなかったのは、
なぜであろうか。」
岐伯がいう。
「古代の学問をおさめた医師は、湯液と醪醴を作りはしましたが、
それは万一に備えるためのものでした。
上古の太平な時代では、
人々は心身は健康で安泰であり、
疾病もほとんどなかったので、
湯液を作りはしたのですが、
そこに置いているだけで用いることはなかったのです。
中古の時代になると、
社会道徳が少し悪くなり、
人々の心身は少し虚弱となり、
外界の邪気はよく人々の虚なる状態につけ入り、
人々を傷つけるようになりました。
ただし湯液・醪醴をわずかに服用すれば、
病気はすぐによくなったのです。」

黄帝がいう。
「疾病が進展して身体が損傷を受けるようになり、
気血が尽きてなくなってしまった段階になると、
効果的な治療法がないが、
これはなぜであろうか。」
岐伯がいう。
「それは病人自身の神気に左右されるものであり、
神気が本来もっているはずの働きを
発揮することができなくなってしまっているからです。」

神気
心が主る神志、すなわち人の意識・精神・思惟活動を指す。
一般的な機能として、神気が充満していれば、
人体の生理機能の調和や平衡がとれて旺盛となり、
身体は強健になり、
逆に神気が散逸すると、
生体の機能活動は破壊される。
張琦の説によると、
「一般的な治療方法では、
邪気を攻めるのは鍼薬の役目であり、
薬物を行らすのは神気の役目である。
そこで体外に治療を施せば、
神は体内で呼応し、
昇らせれば昇るし降ろせば降りる。

これが、その神気を使うことができるということである。

もし、薬剤で体内を治そうとしても蔵気が呼応せず、
鍼艾で体外を治そうとしても経気が呼応しないのは、
その神気がすでになくなってしまって本来の役目を果たさないからである。
力を尽くして治そうとしても、結局無駄になってしまう、
これがいわゆる不便である。」

黄帝がいう。
「神気がその本来もっているはずの働きを
発揮することができなくなるとはどのようなことか。」
岐伯がいう。
「鍼石で病気を治療しようとするのは、
あくまでも一つの方法に過ぎません。
病人自身の神気が散らばってなくなってしまっており、
志意が散らばって乱れてしまっているとすれば、
いかによい治療方法があるといっても、
神気はその本来もっているはずの働きを
発揮させることはできないので、
病気は回復しません。
病人が重篤な状況にあればなおさらのことであり、
精神は傷れ、神気はなくなり、
営衛がもはやとり返しのつかない段階にまで
達してしまっているからです。
疾病がこのような段階にまで進展してしまうのはなぜでしょうか。
末世の社会環境はよい状態ではないし、
人々も養生の道を理解することなく、
娯楽や欲望はきわまりないし、
憂慮・苦難に限りがないので、
人間の精気は傷れ、
営血は枯渇し渋滞するようになり、
衛気の作用も失われて、
そのために神気の本来もっているはずの働きもなくなってしまい、
治療手段に対する反応性も消失してしまうのです。

したがって当然のことながら、
その病気は回復しないのです。」

黄帝がいう。
「病気の初期の症状といったものは、
ごくわずかな変化であるので、
それを把えることはむずかしい。
しかし一般的なケースでは、
必ずまず皮膚を侵襲して、
いわゆる表証を現すものである。
今、医師は、
診察をして、すでに病気になってしまっており、
進展してその予後はあまりかんばしくなく、
鍼石を用いて治癒させることはできず、
湯薬を服用してもまた病変部位に到達させることができない、という。
現在では、すべての医師は医学の原則をしっかり身につけ、
その臨床応用についても熟知しており、
病人とも身近に接して、
声の変化を聴き、
五色の変化を見ているのであるが、
病気はかえってなかなか治らない。
これは治療が手遅れであったためではないだろうか。」
岐伯がいう。
「これは、病人を本と考え、
医師を標と考えたとき、
病人と医師とがうまく協調歩調をとることができず、
そのために病邪を克服することができなかったからです。」


黄帝問曰、為五穀湯液及醪醴、奈何。
岐伯対曰、必以稲米、炊之稲薪。稲米者完、稲薪者堅。
帝曰、何以然。
岐伯曰、此得天地之和、高下之宜。故能至完。伐取得時。故能至堅也。

帝曰、上古聖人作湯液醪醴、為而不用、何也。
岐伯曰、自古聖人之作湯液醪醴者、以為備耳。
夫上古作湯液、故為而弗服也。
中古之世、道徳稍衰、邪気時至。服之万全。
帝曰、今之世不必已、何也。
岐伯曰、当今之世、必斉毒薬攻其中、鑱石鍼艾治其外也。

帝曰、形弊血尽、而功不立者何。
岐伯曰、神不使也。
帝曰、何謂神不使。
岐伯曰、鍼石道也。精神不進、志意不治。故病不可癒。今精壊神去、栄衛不可復収。
何者、嗜欲無窮、而憂患不止。精気弛壊、栄泣衛除。故神去之而病不愈也。

帝曰、夫病之始生也、極微極精、必先入結於皮膚。今良工皆称曰病成、名曰逆、則鍼石不能治、良薬不能及也。
今良工皆得其法、守其数、親戚兄弟遠近、音声日聞於耳、五色日見於目、而病不愈者、亦何暇不早乎。
岐伯曰、病為本、工為標。標本不得、邪気不服、此之謂也。

帝曰、其有不従毫毛而生、五蔵陽以竭也。津液充郭、其魄独居、孤精於内、気耗於外。
形不可与衣相保。此四極急而動中、是気拒於内、而形施於外。治之奈何。
岐伯曰、平治於権衡、去宛陳莝、微動四極、温衣、繆刺其処、以復其形。
開鬼門、潔浄府、精以時服、五陽已布、疏滌五蔵。故精自生、形自盛、骨肉相保、巨気乃平。
帝曰、善。


参考文献:
『黄帝内経素問 上巻—現代語訳』
『中医基本用語辞典』 東洋学術出版
『臓腑経絡学』 アルテミシア

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