マンスリーアーカイブ 1月 2007

実熱と虚熱

実熱と虚熱について

怪しいのであまり堂々と書きたくないのだが、 鍼灸が何故効くかというと やまり 気を動かすことに尽きると思う。 まず前提として 気ありきである。 では 気とはなにか。。 僕のしったこっちゃない(笑) それは生命が生まれた頃からあるものだし、 気とはなにかを学んでから 患者の治療にあたったのではない 逆で 師から病の治し方を教えていただいて そののち、どうやら気を動かしてるんだな といろんな勉強をして知ったのである。 僕が 気の存在を云々するほど大それた存在じゃない。 それは天地が知っていればいいのであって僕の領域ではないと考える。 ただ、その気の扱い、 病の治し方に対しては 人生をかけて研究し、 プロフェッショナルになっていきたい。 たとえば 扇風機を作る職人に 風はなんで起こるのか と聞いてもかれは風の送り方を研究すればそれでいいのだから。 知ったこっちゃないのである。 ただ、人には流れてます。 気が。 では 死とはなにか。。 生命が内臓で構成されていて 血液が循環していることによって 営われているとしたら。 よく考えて下さい。 死ぬときも内臓も血液も脳もあるんですよ。 それでは死を説明出来ない。 なにが、無いか。 エネルギー。  電池はあるが蓄えられた電気がなくなる。 飯を食らい、呼吸をして 睡眠をとり 毎日充電していますが、 遂に切れてしまう時が来る それが死というもの。 そういう話を以前、大変権威のあるお医者さんに尋ねたことがあります、 すると、先生はそれはからだの中の神経間で行われる 電気信号が行われなくなると仰った。 ん? じゃあ、「その電気はどこから生成されるんですか?」と聞くと 「わからない。実は わからんことだらけだ。」 と言っておられました。 実に素直な方だと思いました。 そのシナプス間の電気が走り伝達しているっていうの、 「気」の概念となにが違うのか? と正直思いました。 また、生命は死で完結か。 そうではない。植物を見て下さい 死んだ植物は肥やしとなって土壌に根ざし また 他の植物が生を育むエネルギーとなる。 この世からエネルギーは一切消滅しない。 エネルギー保存の法則。 陽子や中性子のレベルでそんなことが起これば、地球は簡単にぶっ壊れます。 核爆弾です。 エネルギーの循環を宗教者は輪廻と呼び 科学者はエネルギー保存の法則と呼ぶ。 そこにはしっかりと智恵の探究心が及び、よく学ばれた。 しかし 医療はどうかな  とても遅れている 昔のほうが賢かったな。 唯物論的に西洋医学の解剖学の考え方を持って 筋肉 神経をめがけて鍼をずかずか刺す あれは本当の東洋医学ではない! ほら 怪しくなってきた。 世間がとても屁理屈が多いので 正直なことを書くと どうも怪しくなる。 う~む。  参った。 とても合理的なことなんだけど。。

心斎橋にて。

D200 + AF DX Fisheye Nikkor ED 10.5mmF2.8G 大阪 心斎橋、長堀にて

Fティーチャー

昨日 中学生のときの担任の先生(以下Fティーチャー)を 梅田のヨドバシで見かけた。 僕は、先生をよく覚えている。 とても印象的な出来事があったために。 ある日僕は、授業の合間にかくれんぼをしていた。 中学生なので ただのかくれんぼとは子供じみている。 たしか、なにかスリリングなルールがそこにはあったように記憶している。 一人はとてもベタな掃除箱に。 僕もこれまたベタに教卓の下にしのんだ。 しかし、教卓の下は空洞があるので少し見えているのだ。 そんな たわいもない遊びの中、 休み時間終了のチャイムがなる。 僕は、ぎりぎりまで隠れているうちにFティーチャーが教室に 入ってくる。 Fティーチャーが点呼をとる、 悪ガキの一人が、僕は保健室に言ったと告げる。 僕はFティーチャーの足元、息をひそめたまま 授業は始まった。。 授業は続く。 Fティーチャーは何一つ気付かぬまま。 しかし、さすがの彼も何かの異変に気付く。 何故か、生徒達が授業に集中していない。 くすくす笑いをこらえているものもいる。 生徒の態度の悪さに我慢したまま彼は授業を続けるが、 俗に言う「堪忍袋のをが切れた」である。 しばらくして、彼はついに切り出した。 「おい、何がおかしい!」 基本的には大人しい(ごく稀にキレる)Fティーチャーが怒鳴り声をあげる。 しかし 生徒は誰も真実を報告せず もう少しその状況を 堪能したいといった様子である。 Fティーチャーも馬鹿ではない。 彼は、生徒達の視線を察し、 目を下にむけ なにかに気付いた様子である。 沈黙 殺気。 さすがに生徒達も息を呑んでいる。       (続く)        僕も状況を察し ついに観念してFティーチャーの前に 姿を出そうと、小さくたたんだ華奢な体を教卓から出そうと 身を乗り出した、 まさに、その時! 何を思ったかFティーチャーは僕を 蹴り上げた。 ピンボールのように教卓の奥に当たって 跳ね返ってはまた蹴られ、 何度も何度も蹴られまくった。 彼の日ごろの怠慢のせいか、たいした脚力はなく 全く痛くはなかったものの  恥ずかしさの為に 赤面しながらも苦笑いするしかなく、 でへへと笑いながら自分の席に付いたのを覚えている。 痛くなかったから言えるかもしれないが、 内心は、あの事件のおかげで僕はクラスの話題を独り占めしたので、 悪の化身と戦った英雄のようでとても心地よかった。 そういう意味で、僕にとってあの状況はかなりおいしく (Fティーチャーにとっては、禍々しい記憶に違いないのだが) 我を忘れて僕を蹴りまくった彼は、 僕とその状況を作ったあの頃の良きパートナー、 まるで漫才の相方のように 僕の中で一方的な記憶をかたちどっていた。 そんなFティーチャーが当時となんら変わらない 顔で無表情のまま僕の横を通り過ぎていった。 びっくりするぐらい彼は何も変わっていなかった。 今でも彼は記憶の中のFティーチャーだったのである。 なんとも言えない淡い気持ちがよぎった。

京都、福知山の祭りにて。

2005年、京都府の福知山の祭りにて。 ブレブレですが好きな写真。 M君、彼は東京に行きましたが元気にしているかな。    D200+Ai AF Nikkor 50mm F1.4D かなり季節違いですが まあ、いいでしょう(笑)    D200+VR18-200mm

我が祖父

    <我が祖父 目に力のある非常に頭の良い人> D200 + AF DX Fisheye Nikkor ED 10.5mmF2.8G

病むとはなにか。 古来にいう邪気とはなにか。

「痺れがあったり、頭痛があったりするもの ふとした症状を 病気じゃなく、体質だと思っていた。」 こういう症状をどうしようもないものだと考えている人が多い。 自分の性格みたいなものだと。 これは、症状が出るように日頃から、 それらに関連する部位に負担がかかっていると考えたほうが良い。 その体質をよく聞いてあげることで、 東洋医学では どこが弱いのか あるいはどこ(経絡。つまりは気の流れる道)が流れが悪いのかを 読み解くのである。 すでにその段階で病なのである。 病名がついたときに急に病になるのではない。 それは、病名を付ける段階まで体の声を聞いてやれなかった 医者(西洋医にしろ東洋医学にしろ)が未熟だったというだけの話。 毎日の不摂生が確実に体に現れ、確実に進行していく。 或るとき急に病が生じるという考えは非常に誤り。 体の声をもっときいてあげなくてはならない。 病と健康と単純に二つに分けるのは危ない。 生命には病に抵抗する力があり、古来から生気と呼ばれてきた。 体に悪影響を及ぼすものを邪気と呼んできた。 毎日が、生気と邪気の戦い。 邪気とはなにか。 よこしまな 禍々しきものだと考える人がいるだろう。 それは、誤り。 自然界に風がある湿がある寒がある。 これは自然界を構成するもの 必要なもの しかし、生気が弱ってこれらが悪影響を及ぼしたとき、 すなわち それらを邪気という。 人は物を考える。 一定の思考は、人に必要なものであり、人生の良きスパイスにも なる。 しかし、興奮して考えすぎたり、イライラしたり、くよくよしたり。 すると 流れが淀む これも邪気と呼んだ。 良い食物は大変おいしく感じる。 おいしいものは 私もあなたも非常に幸せな気分にさせる。 しかし、脾胃が弱ると、 これらも消化しきれず 体に害を及ぼす これも邪気と呼ぶ 新鮮な食材が 体の状況に 応じて 生気として蓄えられたり 逆に邪気(この場合は食滞) になったりする。 つまり、邪気とは 人の体に及ぼす体への方向性を言うのだと思う。 あくまで生に対する邪。 体の二元論は非常に危険であります。

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